スティーヴン.パーシー
ドン.ドッケン
今回は、スティーヴン.パーシーとドン.ドッケンの共通点という題で話したい。
スティーヴンはRATTのシンガーであり、ドン.ドッケンはDOKKENのシンガーだ。
RATT、DOKKENともにL.Aメタルという範疇に入っていたバンドである。
HR華やかなりし頃に、栄華を極めた。
共に、マルチプラチナムやプラチナをアメリカで獲得したのだ。
そして、ツアーを敢行すればアリーナは当たり前だった。
しかし、時が90年代にはいると、それがかなわなくなった。
やはり聴けばすぐにL.Aメタルとわかる同じ音楽性をずっと続けていくと誰しも飽きが来て、アルバムを買わなくなる、そしてライヴにも足を運ばなくなるからだ。
そしてラジオではかかりにくい、あまりにヘヴィな音楽ということで、あまり一般的にはアピールできない音楽ということがネックになっていたようだ。
RATT
そのように一般的にはなされるようだ。
そのように一般的に言われていても、真理はどうかわからない。
同じような音楽性を継続し、あまりにヘヴィな音楽というのであれば、SLAYERやMETALLICAの現在での地位はどう説明するか、という疑問がわく。
音楽性があまりに同じにすぎるのはSLAYERに当てはまる。
しかし、多彩さではMETALLICAはその弊害はまぬかれている。
しかし、ともにあまりにヘヴィすぎる音楽という面では共通しているだろう。
これではラジオにかかりにくいのは明白だ。
にもかかわらず、この2者のバンドの地位はすさまじい。
SLAYER
SLAYERは活動を停止したが、そのラストツアーでは、どこのフェスでもほとんどトリを務め、ヘッドラインツアーではどこも1万人以上のキャパで敢行された。
そしてその最終公演を収めたオフィシャルライヴの会場は何と18000人を擁する大会場だ。
METALLICAは、91年のあの『METALLICA』アルバムの大ヒットで、全世界2100万枚を売ることになり、それゆえにどの国にいってもフェスではトリが当たり前だし、会場はスタジアム級が当然になった。
やはりヘヴィなものはやはりアクが強い。
アクの強いものにはやはり人間は抜け出すのが難しくなるのだ。
ゆえに、90年代の半ばから勃興したヘヴィ.ラウドブームがいまだに続いているのだ。
そのヘヴィさにRATTやDOKKENは負けている気がするのだ。
やはり中途半端な観があるのだろうか。
80年代に、ラジオでかけるにはあまりにヘヴィといわれたRATTが『LOUD PARK 2010』に出演した時に、観た時の感想はあまりにヘヴィさで他の出演したバンドに負けていると思ったのだ。
しかし私にとっては、このバンドのヘヴィさが一番心地いいと思うのだ。
こういうことを鑑みるに、あまりに一般論だけに拘泥するのは危険なのだ。
やはり譲歩をして先に論を進めていかなくてはならないだろう。
しかしどれもが認めざるを得ない真実として、スティーヴンとドンの共通点は、声域が狭いということだ。
それは両者のベスト盤を買って聴いてみるのがいいだろう。
あまりに狭い領域だけで歌っているのがわかる。
それ故に、その外の声域で歌っている曲が好きな人にはアピールできないことは確かだ。
やはりそれは生まれつきそういう声域ゆえ、という面がある。
そして、歌いに込める歌詞の内容ゆえにそういう曲になってしまったがゆえに、その声域ばかりになってしまった、という両方の面があるのは確かだろう。
RATT,DOKKEN両方にそういう面があるのは確かだが、RATTは前者の特徴にバイアスが、DOKKENは後者の面にバイアスがかかっていると感じざるを得ない。
スティーヴンは、RATTが4作目の『REACH FOR THE SKY』を作るに際して、新しい音楽性に挑戦すべく新しいプロデューサーに変えてアルバムを制作したが、狭いゆえに上手くいかず、それまでプロデュースを担当していたボー.ヒルを呼び出し、レコーディングをし直したという茶番劇を披露したのだ。
『REACH FOR THE SKY』
しかし、DOKKENにはそういう劇はなかったが、結成してから今まで同じよう音楽性のままだ。
それ故に声域も同じようなものだ。
その限られた声域や音楽性ゆえに、多くの大衆を引き込む威力に欠けたということだろう。
そして、スティーヴンとドンの共通点は、ライヴにおいて若干プロフェッショナティに欠けるということだろう。
本来高いところで歌うべきなのに、それよりも低い声で歌ったり、フェイクしてしまうところが目に付くのだ。
やはり音楽ファンは誰しも、レコード通りに聴きたいという根源的な欲求を持っているのだと思う。
レコードを何度も聴いて気に入ったのに、ライヴではそれが観れないのであれば、やはり失望してしまう。
そういう面がやはり目に付くのだ。
しかし、そのほどはジョン.ボン.ジョヴィ(BON JOVI)ほどではない。
この人のレコードの声で惚れたのに、ライヴではキーをかなり低く歌っているし、フェイクのしまくりで失望したのが、88年の東京ドームでおこなわれた『SANYO HEAT BEAT LIVE』であった。
そのころからRATTは、「そろそろライヴ盤を…」などといわれていたが、いまだにライヴ盤は出ていないのだ。
それはこういう部分が一部「貢献」しているのではないだろうか?
しかし、声域が狭いのは、やはり音楽性に起因するのは明白だ。
そしてその音楽性も、その歌詞に起因するのは間違いない。
人をなくした歌を歌うのに、晴れやかな雰囲気を出した曲調にするはずはないのだ。
ゆえに音楽性に起因するのだ。
そしてその音楽性を規定するのが歌詞であるとすれば、それも狭まれるのは当然だろう。
スティーヴン、ドン共に自分のバンドで歌詞を無数に書いている。
それ故に、音楽性がそのライターに規定される。
スティーヴンにしろ、ドンにしろ、自分のそれまでに経験してきたこと、価値観、感情、知見、その他の集大成がその歌詞に込めらているのだ。
それに起因するのであれば、音楽性は限定されたものになるのは必然だ。
その結果RATT、DOKKEN両方とも聴けば、「L.Aメタルだ。」とわかる性質のものになったのだ。
しかし、歌詞を書く人のパーソナリティが、多くの大衆を引き込むほどのカリスマ性を秘めたものであれば、その音楽は大ヒットする。
それが、同時代のバンドであるBON JOVIだった。
BON JOVI
このバンドは、デビュー当初は、メタル然としたものだったゆえに、それなりにヒットはしたが、RATTやDOKKENにはかなわなかった。
しかし86年に出したアルバムにおける試みが大成功し、世界で1000万枚以上を売るヒットになり、RATTはこのバンドの後塵を拝することになったのだ。
しかし、RATTやDOKKENがこのような大成功を収めるためには、音楽性のチェンジ、そして歌詞の大幅なチェンジが必須だった。
しかし、そのようなことを試みても無駄だったろう。
やはり歌詞はその書く人のパーソナリティに起因するものであって、無理やり変えさせるものではないからだ。
たとえ、外部のライターを使って、大衆向けの歌詞を書いたとしても、大衆が支持しても私は支持しない(笑)。
そのような歌詞を聴いても感動しないからだ。
そういった試みは、スティーヴンにしろ、ドンにしろしないだろうことは明白だ。
やはり2人とも、自分の内から湧き上がるものを歌詞に込めたいからだ。
私は最近、アンケートサイトでためたポイントで、セリーヌ.ディオンのDVDを購入して、鑑賞した。
しかし、いくら聴くもソウルが感じれない。
そこでネットで調べてみた。
するとセリーヌは歌詞を全然書いていないのだ。 書いてもアルバム1枚につき1曲くらいのものなのだ。
全世界で2億枚以上を売ったシンガーが、歌詞を書かないとは…と驚愕の思いになったのだ。
これまでの経験上、歌詞を書かないシンガーのアルバムは聴かずにいつしか棚の奥にしまったまま放置、ということに必然的になってしまっていたので、セリーヌのもそうなることは確定的と判断して、ヤフオクで売ることにしたのだ。
セリーヌ.ディオン
セリーヌの生まれたのはカナダのケベック州で、ここではフランス語が話されている。
ゆえに英語で歌詞を書けないのは必然であるが、非英語圏で育ったアーティストでも英語で歌詞を書いてヒットした例は無数にある。
ゆえに英語で書けないというのは歌詞を書かなくてもいいという言い訳にはならないのだ。
非常に偉そうであるが本心だ(笑)
それにセリーヌはフランス語で歌ったアルバムを幾枚も出している。
そこでも歌詞を書いていないのだ。
セリーヌのように大衆向けの音楽と歌詞で全世界的なヒットになったとしても、それが自分で書いた歌詞を歌ったものではないのならば、わたしはたとえ世界的な億レベルのヒットにはならなかったとしても自分で歌詞を書いてきたスティーヴンやドンの方を支持するのだ。
これは何もスティーヴンやドンに同情を示しているのではないのだ。
そんな同情などという言葉が出るほど、2人がみじめな生活をしているとは言えない。
RATTは全世界で3000万枚を売ってきたのだし、DOKKENもこれには及ばないもののかなり売ってきた。
『TOOTH AND NAIL』から『BACK FOR THE ATTACK』までの3枚で全米プラチナを獲得してきたのだ。
HR華やかなりし頃でもこれだけの成功を収めたのは、かなりまれであることを鑑みればかなりの成功だ。
たとえ、大ヒットを狙って外部ライターを起用して結果大ヒットをしても、私は支持しないだろう。
人が書いた歌詞を歌っても一向に私は感動できないたちだからだ。
ヒットはしたが大ヒットを記録できなかった原因として、やはりあまりに巧いギタリストを擁していたということである。
RATTはウォーレン.デマルティーニを擁し、DOKKENはジョージ.リンチを擁していた。
ウォーレン.デマルティーニ
この2人はかなり上手い。
フィンガリングとピッキングがかなり精巧なのだ。 のみならずそのソロのメロディに誰もが耽溺してしまう品位を備えているのだ。
それが多くの日本のHRファンを唸らせて、84年の『BURRN!』の人気投票ではウォーレンがギタリスト部門でチャンピオンになり、88年のそれではジョージがチャンピオンになった。
ちなみにRATTの“Round And Round”は曲部門でも84年にチャンピオンになったのだ。
こんなことを散策している暇人はどれだけいるだろうか?(笑)
テクの上では、上位に立つのはやはりジョージだろう。
ジョージ.リンチ
その実力が最大限に開花したのは、『BACK FOR THE ATTACK』だろう。
『BACK FOR THE ATTACK』
ジョージ.リンチの魔術師ぶりは、ギターソロ時において、ピッキングの時とハンマリングの時を画然とわけるのではなく、その各々の時を混然一体とプレイし、その時間(といっても0.00何秒だが)がわけ隔てなく混入しているということである。
奇想天外にソロが展開されていくのである。
それでいて、そのフレーズには聴き手を思わず聴くようにのめり込ませる魅力があるのだ。
常人にはひらめきようのない創造力を持っているのである。
“Dream Warrior” 『BACK FOR THE ATTACK』収録
ウォーレンも負けじと才能を持っているのだ。
そのプレイゆえに、一見そんな佳曲にはなりえなそうな曲が名曲にまで成り上がる観があるのだ。
しかし、一見、高いレベルのテクを持つことはいいように思われがちだが結果はそうではないのだ。
DEF LEPPARDの88年のクリップである“Hysteria”を最近見たが、「良い曲だ」とはおもうものの、このバンドのファンにはなれなかった30年間を思い出した。
DEF LEPPARD
このバンドは当時のHRバンドには珍しく速弾きをしないバンドなのだ。
ゆえに誰でもコピーができ、何曲もコピーができ、それ故に親近感が出て何度もアルバムを買おう、そしてライヴにも行こうという気にさせてきたのだ。
もちろん曲が良くなければ、その気にもならないのは当然だが。
その“Hysteria”も速弾きはなしの手なりのソロだ。
そしてメロディはキャッチーだ。
そういう曲でなければミリオンセールは獲得することは難しいのだ。
あまりに巧すぎるプレイはファンになる心理を形成することはできないのだ。
RATT,DOKKENともに素晴らしいギタープレイを奏でてくれるギタリストがいるが、それが長い期間を俯瞰して分析すると、やはりそれはマイナスに働くようだ。
あまりに巧すぎるプレイ、あまりに難しいテクでは、だれしもコピーができなくて、易しいプレイをするバンドのコピーに偏りがちになるのは必然である。
先にあげたDEF LEPPARDにしろこれまで世界で1億枚を売ってきたし、AC/DCにしろ2億枚以上売ってきたし、AEROSMITHにしろ1億4000万枚売ったし、GUNS N' ROSESにしろ1億枚以上売ってきた。
これらのバンドはいずれもギターソロにしろ伴奏にしろ、手なりで易しいプレイだ。
ゆえに何曲もコピーできて、ゆえに身近な存在になることができたのだ。
しかしRATTにしろ、DOKKENにしろあまりに難しいソロで、誰にもできるプレイではないのだ。
ゆえに、ミリオン単位の成功には及ばなかったのだ。
もちろん、その他の要素も起因していることも確かだが。
“Dance” 『DANCING UNDERCOVER』収録
しかしだからといって、私は平易なプレイでは興奮できないし、感動もしない。
ゆえに、AC/DCやAEROSMITHよりも断然RATTやDOKKENの方が好きだし、RATTに至ってはアルバムをCDとLPで両方集めてしまうほど好きだ。
しかし、先の2億枚を売ったセリーヌ.ディオンにしろ、1億4000万枚を売ったBACKSTREET BOYSにしろ、ブリトニー.スピアーズにしろ外部ライターに書いてもらった歌詞を歌っているのだ。
それでこれだけのヒット。
私が求めるアーティスト像と、一般が求めるそれはやはり乖離しているようだ。
だが、そのスタンスを自分は変えるつもりはないのだ。
そんな努力をしたところで、3日で終わることは明白だ。
したくないことを無理やりしても限度があるのだ。
L.Aメタル四天王のバンドでの売り上げ順で大きいのから挙げていくと、MOTLEY CRUE、RATT、DOKKEN、KEELであろう。
これは間違いない。
やはりMOTLEY CRUEはサードあたりからL.Aメタルという範疇を超えて、一般受けする音楽性を身に着けて、多くのファンを引き付けて売り上げを上昇させた。
MOTLEY CRUE
決定打になったのは、89年発表の『Dr.FEELGOOD』だろう。
これが全米700万枚を売る結果になり、他のL.Aメタルのバンドから大きく隔たった。
こんなすごいアルバムを出したらどんなバンドでも太刀打ちできないだろうと私は即座に思ったのだ。
蛇足だが、KEELはこの範疇に入るバンドだったのだが、ヒットには恵まれなかったのだ。
KEELのアルバムの3つでジーン.シモンズ(KISS)はプロデューサーを務めた。
それを知って私は驚いた。
のみならず、ジーンはHOUSE OF LORDSのアルバム2つでもプロデューサーを務めたのだった。
いずれもKISSの音楽性からは程遠い音楽を体現しているので驚きだったのだ。
しかし、KEELにしろHOUSE OF LORDSにしろ全米でもどこででも成功らしい成功は収めていない。
それが不憫で仕方ないのだ。
いずれも良作であると胸を張って勧めれるアルバムであることは間違いないのだ。
いつか、「HR/HM華やかなりし時代においてもゴールド以上の売り上がを果たさなかったバンドは、やはり特筆すべき音楽性がない」ということを書いたことがある。
しかし、ことKEELやHOUSE OF LORDSに関してはそういうことはないということは胸を張って言える。 特に『KEEL』アルバムはおススメである。
『KEEL』
また蛇足だが、KEELから派生したバンドとして以下の2つがある。
まずは、COLD SWEATである。
これはギタリストであったマーク.フェラーリが決成したバンドであるが、このバンドには一時的にせよのちにLYNCH MOBのシンガーになるオーニ.ローガンがいたのだ。
同じL.Aメタルという範疇にいたバンドゆえに、音楽性にも共通性を見出したのだろうか?
またドラマーだったエドウィン.ミラーも一緒に結成したROX DIAMONDがある。
ROX DIAMOND
これもL.Aメタルの匂いがプンプンと香る良質のハードロックだ。
いずれも、お勧めのバンドである。
90年代半ばに勃興したラウドヘヴィのブームによって、ラジオでかからないヘヴィなミュージックを体現するバンドでさえも、ヒットをすることができるようになったのだった。
そのヘヴィさに太刀打ちできるバンドがHRのバンドでは少ないがために、HRのブームが難しいということになったのだ。
しかし、そんなヘヴィさに太刀打ちできるHRバンドとしてMOTLEY CRUE,NICKELBACKを挙げたことがある。 その他、WHITESNAKEも挙げれるだろう。
WHITESNAKE
またSCORPIONSもヘヴィさでは負けるものの、それまでの実績(アルバム、シングル合わせて世界で1億枚以上売ってきた)ゆえに、HMバンドを前座にするほどの人気ぶりなのだ。
またGUNS N' ROSESもそうだろう。
このバンドもアルバム、シングル合わせて世界で1億枚以上売ってきたゆえに、ヘヴィメタルフェスでもトリを務めるほどなのだ。
このバンドのデビュー当初、MOTLEY CRUEの前座を務めたが、MOTLEY CRUEもこのバンドがこれほどのビッグなバンドになるとは思ってなかったに違いない。
同じL.A出身であったのも考慮に入れてである。
しかし出身地云々はアーティストは全然考えていないだろう。
このような知的な遊戯をしているのは私だけであろうか?(笑)
80年代はどのバンドのどのアルバムも傑作ばかりだった。
しかし、90年代の半ばになるとどのバンドの、どのアルバムもよくなくなってしまったのだ。
RATTやDOKKENも同様だった。
それ故にか、いろんな事情でこれらのバンドは一時解散した。
そして復活した。
いずれも発表したアルバムは、何枚かいい出来のものがあるのは確かだ。
しかし、年齢を重ねると、どうしてかアルバム発表の頻度は鈍化していくのだ。
RATT,DOKKENより後にデビューしたPOISONであるが、2枚目のアルバムの大ヒットによって、この両者を一気に凌駕した。
POISON
しかし、このバンドもアルバムをほとんど出さないまま歳月がたっている。
今年で実に15年である。
長すぎる(笑)
しかし、DEF LEPPARDやMOTLEY CRUEとのツアーへの同行が決まっているのだ。
このようなことをするのもいいが、アルバムを出して日本にも来てほしいというのが実情だ。
もうかれこれ30年以上、日本に来ていないのだ、このバンドは。 アルバムを出していないのは、RATTも12年、DOKKENも10年である。
やはり、これまでアルバムを出し、世界中でアルバムやシングルが売られて、カラオケでそれらの曲が歌われれば、印税が入ってくる。
ゆえにあくせくしなくても、生活できるのだ。
ゆえに、アーティストは年齢を経るたびに、アルバム発表の頻度が鈍化していくのだ。
それでは哀しいといわざるを得ない。
しかし仕方ない面もある。
人は誰しも、好みを持つようになり、人の良しあしをすぐに見分けられるようになる。
ゆえに、これまでたまっていた鬱憤がたまっていくのだ。
ゆえに、往年のメンバーではアルバム制作やツアー敢行などできなくなっていくのだ。
私は10代に草野球をしていたが、やはりどうしても一緒にやりたくない人間が2人いるので、どうしてもそのチームの再結成はしたくないのだし、再結成をしないでいるバンドのメンバーの気持ちも充分にわかるのだ(笑)
それは、研究をほとんどしなくても、毎年多くの大学生が講義に参加するので、お金がもらえる。
ゆえに研究を怠る大学教授は多くいる。
それと一緒の心理なのだ。
研究をしなければいけないとわかっていても、しないで終わっている教授は無数にいる。
大学の教員になって退官するまで本1冊しか出さない教員は山ほどいる。
私が大学時代に入ったゼミの教授はこれまで1冊しか本を出していない。
あれだけの学費を出したのだから、それから受け取った研究費を使っての結果として、本の数冊は出してほしかったというのが実情だ。
やはり大学に高いお金を払って入りたいという人がわんさかいるゆえにこうなってしまうのだ。
競争が行われないまま歳月が過ぎてもいいのだ。
デヴィッド.カヴァーデール(WHITESNAKE)はそういう人たちとは一線を画している。
今年、71歳にもなる人がアルバムを出して、ツアーも敢行している。
デヴィッド.カヴァーデール
そういう人間像をこれまでアルバムを出していないベテランアーティストは見習ってほしいものである。
もちろん、スティーヴン.パーシーにしろドン.ドッケンにしろ同じである。
これらのアーティストに期待をしているのだ。
今回はこれにて終わりにしたい。
●以下、RATTとDOKKEN両方のベストアルバムを紹介したい。
↓
●以下のサイトでも取り扱っています。
↓
タワーレコード
【HMV】ローチケHMV|音楽CD・DVD
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。