以前書いたが、作詞をしないシンガーの曲は、感動できない。
感動できないゆえにファンにもならないし、ライヴにもいかない。
逆に作詞をするシンガー擁するバンドの曲は感動でき、いつまでもファンになり、ライヴにも足を運ぶ、ということだ。
それは、海外アーティストに対するスタンスだが、それは国内アーティストでも同様だったようだ。
日本の女性グループのMAXの某アルバムがBOOKOFFで100円で売っていたのでプレイヤーにかけて聴いてみるも、感動できずに終わって、棚の奥にしまっておいた。
前々から気付いていたが、作詞をしない人の歌を聴いても、やはり集中できないし感動できないので、疎遠になるのだ。
そしていつしか中古盤屋に売るか、ネットオークションに売ることになってしまうのだ。
ヤフオクで、MAXのシングルを2枚同時に私のページから買ってくれた人に、そのアルバムを無料でつけると問いただしたら、もらってくれたのだ。
このグループの代表曲の1つである“Ride On Time”はヒットした曲で、オリコンチャートで4位にまでいったのだ。
そこで、その詳細をウィキペディアで調べると、作曲は横山輝一であることを知った。
この人は86年の昔からソロ活動をしていたようだ。
そのころから人気絶頂だったようで、シングルやアルバムを出し、ヒットし、そしてライヴも敢行されていたようだ。
しかし、90年代後半になってシングルやアルバムを出すのをやめて、他アーティストへの楽曲提供を主だった活動にしているようだ。
この人を知ったのは97年に、アートネイチャーのテレビ宣伝でこの人の曲を使っていたのだ。
97年にテレビ番組をビデオに撮っておいたのを、10年後に見てそれを発見した。
テレビCMはわずか15秒だし、その中だけの歌の小節だけでそのシングルを欲しくなったのだから、横山輝一は自分にとって大ファンになれる相性のいいアーティストというほかない。
それで、この曲をネットで検索をしたら、“愛したくて”という曲であることを知った。
それで、この曲のシングルを探してみると、どのサイトでも中古でしか取り扱いはなしである。
それで、このアルバム収録のアルバムを、またネットで検索してみて、その収録アルバムを中古で買い、そして聴き、悦に入っているのだ。
しかし、活動を休止してしまったアーティストは、やはりいつまでも入手可能であることは難しい。
ましてや、アーティストの数が半端ない昨今においてはなおさらだ。
横山輝一のも、全部入手不可だ。
もっと早く、生まれていたら横山輝一のシングルやアルバムをすべて新品で入手していたことは間違いない。
この件で、この人に興味が出て、いろいろ調べた。
すると、MAXやZOO、SILVA、Winkといったアーティストにも楽曲提供していることを知って驚いたのだ。
それのみか、MAXの“Ride On Time”のセルフカバーを自分のライヴでもしていた模様も、今動画で確認することになった。
いろいろ、この人の曲を聴くとやはり、その手の才能には溢れているのがわかるのだ。
またこういうスタンスでいるアーティストとしては、中西圭三が挙げれる。
中西圭三
この人は、90年から知っていて、いろんなヒットソングはタイムリーで体感していたが、今はシングルやアルバムを全然出さずに、他人への楽曲提供にシフトしている。
中西圭三、横山輝一ともに20年以上、自分のシングルやアルバムを出していない。
やはり生活するのに困らないからだろう。
いろんなアーティストに楽曲提供してくれば、その曲が入っているアルバムやシングル売れれば印税が入ってくるし、その楽曲がカラオケで歌われればまた印税が入ってくる。
また、その楽曲がコンピレーションアルバム等にも選曲され、それが売れればまた印税が入ってくる。
デビューしたての頃は、誰もがせわしなくシングルやアルバムを出すも、時の経過とともにそれらを出さなくなるのは、こういうメカニズムになるようだ。
そういうスタンスになってしまうのは、ファンなら誰しも残念になり、ファンの中には泣き出す人もいただろう。
しかし、時の経過とともにそれに慣れて、いつしか復活のない状態が当たり前になっているのだ。
やはり活動中は、多くの人が注目するも、そのアーティストが解散あるいは活動休止してしまうと、誰もが興味関心がなくなる。
それは、どのアーティストでも共通の事象であるが、その関心のなくなり具合が大きいのが、外部のライターに作詞作曲をほぼすべて任せているアーティスト…そんな風に感じるのは私だけであろうか?
逆に、自分で作詞作曲していたアーティストは、たとえ解散、活動休止をしてもコアなファンが居続ける…そんな気がしないだろうか?
やはり、秋元康プロデュース、つんく♂プロデュース、小室哲哉プロデュースのアーティストのCDやDVDの発売当初の売り上げは爆発的に上がる。
しかし、時がたつとすぐに売れなくなる。 確かに、後になってネット検索なりをして、購入する人もいるだろうが、その数は少ないのではないだろうか?
逆に、自分で作詞作曲をしているアーティストのモノは、発売からかなり経っても売れ続ける。
そして、その良さについて語り続けられる度合いが強い…そんな気がするのだ。 ネットオークションをやっていてそんな気がするのだ。
作詞作曲を自分でするアーテイストのモノは、時間がたってもアクセスを集め続けて売れ続ける。
しかし、作詞作曲をしないアーティストのモノはオークションで出してもなかなか売れないが、するアーティストのものは時間がたとうが売れ続けるのだ。
自分たちは歌うだけというアーティストのスタンスを否定するわけではないし、するつもりもないが、そういう事象があるという厳然たる事実がある、ということである。
ましてや、そのアーティストについての偉大さなど語られるわけもない、作詞作曲をしていないのだから。
アーティスト側も、偉大さを語られるために音楽をしているわけではない、と反論されそうであるが、その通りだし、偉大さを見つけるために私も音楽に触れているわけでもない。
でも応援したいのは、やはり作詞作曲を自分でするアーティストであることは間違いない。
特に作詞は、自分の思いや考え、経験といった聴いている人に訴えたいものを詞にするのだから、その思いがない他人の書いた歌詞に100%の感情を込めることなど不可能だ。
その不可能性ゆえに、聴き手に感動を呼び起こすことなど不可能であるということだ。
確かに、100%といわなくても、自分の感情と重なる部分があれば、それなりに聴き手に感動を起こすことは可能ではあるけれども、しかし心底感動することはないことは間違いない。
それは後々の注目のされ具合や、語られ具合をみればわかるだろう。
一時の感情に任せるのではなく、こういった広い視点で自分の音楽のスタンスを決めるべきであるということである。
全然注目されずにいても自分で作詞作曲をしたアーティストの曲で、自分の好みにあった場合は、その曲のほうが放したくはない気分になりいつまでも聴き続けるだろう。
逆に、自分で曲を作らずに他人に楽曲提供されたヒット曲や大ヒット曲は、聴いても感動せずに終わりである私の場合。
それは、ほかの人に楽曲提供しただけで、セルフカバーしかしていないでシングルカットされていない曲でも同様だ。
MAXが歌う“Ride On Time”よりも、横山輝一の歌う“Ride On Time”のほうが感動的である、ということである。
MAXのあの曲をヒットさせたことの偉業は、推して知るべしであるし、あのセクシーできれいなメンバーの映像を見るのは男性としても気分のいいモノであることは間違いない。
そのことは良いとは思うが、それがいつまでも音楽的な素晴らしさとして語られることはない、ということである。
残念ながら…。
だが、そういう曲でもいい面はあるので、撲滅させるべきといったような議論は暴論になってしまうからやめたいし、するつもりもない(笑)
しかし、かつての一線に出て活躍していたアーティストが退いて、楽曲提供だけに終始してしまうのは残念ですらある。
バックバンドを率いて、ギター、ドラム、ベース、キーボードといったミュージシャンをバックに、フルエレクトリックでプレイしていたが、それをやめてしまい、自分でアコースティックギターを弾きながら、歌うだけというスタイルに変身してしまったリチャード.マークスを即座に思い起こす。
彼も楽曲提供が本業で、たまにそういったアコースティックライヴをするだけになってしまった。
リチャード.マークス
今年でWHITESNAKEの最終ライヴであると公言したデヴィッド.カヴァーデールであるが、これから先は音楽はするも、ツアーはしないということである。
しかし、やはり楽曲提供がメインになるのだろうか?
そんな気がする。
しかし、これから先、デヴィッドが楽曲提供をしたアーティストの曲を私が買うかどうかは、その歌詞をそのアーティストが書いたら決めると思う。
やはり自分が書いていない歌詞を歌っているのを聴いても、やはり感動は呼び起こさないことは明白だからだ。
でも、おそらくデヴィッドのライヴはいくだろうと思う。
おそらく彼は、アコースティックライヴのような形でするのだろうと思う。
96年にだした『RESTLESS HEART』がいきなりヘヴィさを減退させたが、その理由は87年と89年に出した2つのアルバムをあまりに時流に合わせ続けヘヴィにしたがゆえに、精神的に参ったというニュアンスの言葉が語られている。
ゆえに、97年のツアーの前には、アコースティックライヴまで敢行したのだろう。
そのライヴ模様が、『STARKERS IN TOKYO』というオフィシャル盤として出ている。
しかし、あの年のツアーでは87年と89年の時とは違ってヘヴィさを落とし、あまりヒットしていなかった頃の楽曲まで取り入れたがゆえに、あまり反応が良くなかったのだろうか?
2003年の復活時には、87年と89年の頃のヘヴィさと楽曲を戻したのだ。
それ以来、あのヘヴィさを維持したアルバムを出し続けている。 疲れるといっていたのに…そのヘヴィさに慣れたのだろうか?
あるいは仕方なしにやっているのだろうか?
真偽はわからない。
97年のインタビューで「“Still Of The Night”もいつか終わりにいなくてはならない。」といっていたが、いまだやり続けている(笑)
それでいいのだ。
あのヘヴィさと80年代後半の曲が中心でなければ、私はWHITESNAKEのファンでい続けることは不可能だ。
しかし、デヴィッドよりも年配のSCORPIONSのメンバーたちもかつては「80歳で引退ではカッコ悪い。だから今のうちに引退するんだ。」ということで、引退宣言をした。
しかし、それからその前言を撤回して、今も現役を続行して、今年の最初にもニューアルバムを出している。 デヴィッドにもそのアティチュードを望んでいるのだ。
横山輝一を探索しているうちのそのようなことを考えてしまった。
今回はこれにて終了したい。
以下、関連CDを紹介したい。
●楽曲の出来もよく、歌唱力も高い横山輝一のベスト盤は以下!
↓
●セクシーさでは秀逸なMAXのベスト盤!
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●以下のサイトでも取り扱っています。
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タワーレコード
【HMV】ローチケHMV|音楽CD・DVD
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。